パンに祝福された国
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世界でもっともパンの種類が多く、その特有のパン文化がドイツ国内のユネスコ無形文化遺産にも登録されている、ドイツ。切り分けて食べる大型パン(ブロート)で300種、そのまま食べる小型パン(ブローチェン)で1200種にのぼるとされ、加えて、菓子パンや祝い事などの特別な日に食べるパンも豊富にある。そんなドイツのパンの世界に魅せられた『ドイツパン大全』の著者の森本智子さんに話を訊いた。
森本 智子(Tomoko Morimoto)
ドイツ食品普及協会代表、株式会社エルフェン代表取締役。ドイツで11年暮らした後、2005年から現在にいたるまで、ドイツ食品、食文化の普及に関わる仕事に携わり、ドイツ食品の輸入、販売サポート、展示会、イベントのコーディネート、ドイツ視察旅行の企画・ガイド、セミナーなど幅広い活動を行う。ドイツのビアソムリエ資格「ドゥーメンス・アカデミー・ビアソムリエ」を日本人初取得。著作に『ドイツパン大全』、『ドイツ菓子図鑑』、『フォトエッセイとイラストで楽しむちいさなカタコト*ドイツ語ノート
』がある。
パン抜きにドイツの食文化は語れない
ドイツは日本とほぼ同程度の国土面積を持ち、北緯47~55度と日本よりも北寄りに位置するため気候は冷涼。地形は北部の低地、中部の山岳地帯、南部のアルプス山地の3つに分けられ、地形や気候によって生活と食文化に違いが生まれてきた。農業の盛んなドイツでは、国土の約5分の1が穀物畑であり、パンの主原料である小麦は南部で、寒冷地や土地が痩せていても育つライ麦は北部で盛んに栽培されてきたため、使用する穀類の配合や焼き具合を変えることでパンの種類は次第に増えていった。加えて、ドイツでは小麦やライ麦のほかに、オート麦、大麦、きび、そば、そして近年健康面で注目を集めるスペルト小麦(小麦粉の原種にあたる古代穀物)など、パンに使われる穀物の種類が豊富なこともひと役買っている。しかし、パンの種類以上にまだ日本であまり知られていないのが、ドイツにおけるパンの重要性ではないかと森本智子さんは言う。
「ドイツでは1日3食のうち、基本的には毎日朝晩パンを食べます。朝食は小さなパンを中心にしっかり食べ、夕食では大きなパンをスライスして、ハムやソーセージ類やチーズなどの冷たい食材をパンのお供として食べるのが伝統的な食事です。日本にはご飯が進むおいしいおかずが数多くあるように、ドイツにはパンが進む食材が豊富で、パンこそが食卓の主役なんです」
加えてドイツの食習慣には、三度の食事のほかに軽食としてハム・ソーセージ類やチーズをお供に小型パンを食べる習慣があり、ドイツ南部の一部の州ではこれを「ブロートツァイト(パンの時間)」と呼んでいる。来客のおもてなしにも欠かせないパンは、新年のお祝いやイースター、クリスマスにも登場する。日本でもおなじみとなったシュトレンもドイツのクリスマスを彩る祝いパンだ。
ドイツパンの多くは、その形や使われる材料ひとつとっても、それぞれに意味がある。ドイツから帰国してドイツの食品の普及・販促の仕事に就いた森本さんは、パン抜きにドイツの食は語れないという考えに至り、2017年に『ドイツパン大全』を上梓した。ライ麦を始めとするドイツ産の穀類や食材が日本でも手に入る昨今、100以上のドイツパンの製法が載ったこの本があれば自宅でも本格的にドイツパンが作れるということで、反響も大きかったという。
パン職人でなくともこの本を楽しめる要素は、ドイツパンを起点に広がる豊富な雑学だ。たとえば、ドイツでは引っ越しや結婚式、新生児の洗礼の贈り物に「パンと塩」が贈られるが、それはなぜか。パンは体力の源、そして塩は調味料であると同時に防腐効果が昔から重視されてきたことから、パンと塩の組み合わせは、悪霊、悪魔や呪いなどの悪いものを撥ね除け、人と人同士の結びつきや善意、ホスピタリティのシンボルとされてきた。そのため、新しい家に食糧が絶えず、富と健康がもたらされるよう祈りを込めて、お祝いにパンと塩を贈るのだという。そのことを象徴するように、ドイツにはこんな格言がある。 「Fehlt das Brot im Haus, zieht der Friede aus. -Deutsches Sprichwort-(家にパンがなくなると、平和も去っていく)」
ほかにも、ドイツといえば真っ先にビールを思い浮かべる人も多いだろうが、パンと同じく穀物を原料にするビールは、嗜好品ではなく大切な栄養源として中世の頃は各家庭で作られ、ドイツでは昔から「液体のパン」と呼ばれていたのだそうだ。昔からドイツ人の食生活に欠かせないパンとビールを合わせて、ビールを使って作る「ビアブロート」というドイツパンがあるのも興味深い。
ドイツでパン屋を始めるのは大変?
パン大国ドイツでは、パン屋になるための道のりが日本とは随分異なる。パンの世界にもマイスター制度が適応され、パン屋を自分で開業するためには職業訓練学校で3年以上カリキュラムを受けて職人のプロ資格であるゲゼレを取り、その後ようやくマイスター試験に挑戦することができる。パン職人のマイスター試験は合計6日間にわたって実施され、製パンに関する実技、理論のほか、経営や簿記、営業、法的知識や人材育成の知識など、多岐にわたって学んでいなければならないが、取得すれば専門家、経営者、養成者の3つの役割を持つことになり、大学における学士(バチェラー)と同等とみなされる。そのようなドイツの製パンの現場から学べることはあるのか、森本さんに訊いた。
「ドイツではパン職人のみならず、店頭スタッフも専門性を問われます。ただレジ打ちをするだけではなく、店頭に並ぶ商品知識がすべて入っているのはもちろんのこと、お客さんにパンごとの美味しい食べ方などもきちんと説明できなければなりません。お店のショーウィンドウやショーケースの見せ方も重要なので、ドイツには店頭専門販売員になるための専門学校まであります。日本ではそういう専門的な知識を学ばずとも、お店をやりたいと思えば我流でも始めることができてしまうので、どちらも一長一短ではありますが、ドイツのパンの現場から学べることは多いのではないでしょうか」
サワー種のバイブルを目指して
森本智子さんは現在、新たにドイツパンに関する本の出版プロジェクトを進めている。ルッツ・ガイスラーの著書『ベーキングブックNo.4 サワー種でパンを焼く』だ。酸味を帯びた生地がベースのサワー種は、ドイツではライ麦を使うパンに昔から使われている。パン生地に混ぜるとサワー種酵母が働いて炭酸ガスを発生し、膨張させる。ルッツ・ガイスラーはドイツにおいてパン本の累計売上No.1を誇る人気パンブロガーとして知られているが、数あるパン本の中からなぜこの本の翻訳に着手したのだろうか。
「近年、美味しくて身体にもいい食への関心が高まり、世界的に発酵ブームが起きています。ドイツは健康志向の高い人が多く、オーガニックや発酵の分野においては先進国と言える。コロナ禍で自宅でパン作りを始めた人の間でも、自ら作ったサワー種で長時間発酵させて作るパンが流行っています。ライ麦を使用するドイツパンには欠かせないものなのですが、『ドイツパン大全』には残念ながらサワー種の作り方までは載せられなかったんです。だから、製パンマイスターたちの教本としても使われ、内容的に優れた彼の著書の日本語版を出版することで、時代のニーズに合ったドイツのパン本を多くの人に届けたいと思っています」
ルッツ・ガイスラーは元々ドイツのパン業界の出身でもなく、大きな工房で働いていた経験もない。それにも関わらず、いまや製パンマイスターたちに指導するほどドイツパンの世界では影響力を持っている。自家製パンから興味の幅を広げて、持ち前の研究者気質を活かして得た知識を、ブログで発信し続けてきた。常に素人の側に立ちつつ、“なぜ”を追求してきたからこそ、小規模のパン屋や趣味でパンを作っている人々からこれだけ支持を得られたのだろうと森本さんは話す。
「サワー種はライ麦粉と水で作られるイメージが強いですが、小麦のサワー種もありますし、フルーツから育てる酵母などさまざまなケースがあって、それらひとつひとつが写真付きで解説されています。サワー種はどのようにケアしたらいいのか、何日目でどのように変化するからどうすればいいか、といったこと事細かに説明されているので、なんとなく見よう見まねで始めてみた人も、段々理屈がわかってくる。たとえ微生物のことが最初はわからなくても読んでいるうちに理解が深まるし、自分のサワー種にとても愛着が湧いてくると思います。欧米では自分の種にペットのように名前を付けて、毎日ケアをしながら何年も継ぎ足している人たちもいます。最近では日本でも自宅で甘酒や味噌を作ったり、ぬか漬けを始める人が増えていますよね。サワー種を起こすこともその感覚と近いのかもしれません」
「訳していて、改めてパンは科学なんだと思いました」最後に森本さんはそう付け加えた。パン文化は国の風土によって、土地で育つ食材によって独自の進化をとげてきた。そして、習慣や信仰と絡めることで特別なものとして育まれてきた。そのような社会的アプローチで捉え直すのもおもしろいが、より身近で不思議な発酵という現象からパンを見つめてみるのも、ドイツのパン文化のみならず、奥深いパンの世界をさらに好きになる一歩かもしれない。
インフォメーション
ルッツ・ガイスラー著『ベーキングブックNo.4 サワー種でパンを焼く』の日本語版は400ページ超えのフルカラーの上製本。限定1000部発行予定。なお先着500名様には『別冊レシピ(非売品)』がついてきます。
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