シェフの本棚 | クリスティーナ・ガネア・バーテルセン(BROD店主)
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Article & picture=Yuya Okuda
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本棚はその人の内面を映すとはよく言ったもの。本は創作のヒントにもなれば、初心を忘れないためのお守りのような存在になることもある。では、あの人はどんな本を読んできたのだろう……、シェフの本棚から大切な一冊を選んで紹介する新連載
第1回は、東京・広尾にあるマイクロベーカリー「BRØD(ブロード)」店主のクリスティーナさんに、今最も推したい本について語っていただきました。


くらもとさちこ 誠文堂新光社 2024年
食文化とはなんだろう。少なくとも郷土料理と言われるものには、その地域の歴史的背景や地理的条件が反映されている。そして、地域特有の食材を用いた家庭料理が世代を超えて受け継がれていくことで、食べるという行為の範疇を超えて、地域のアイデンティティを形成する重要な要素となっていくのかもしれない。
「ロブロ(RUGBRØD)」とは、デンマークの伝統的なライ麦パンのこと。北海道の稚内よりも緯度の高いデンマークは、ライ麦が日常的に消費されるライ麦文化圏に含まれ、およそ1000年前からライ麦が収穫されてきた。ライ麦は小麦よりも耐寒性が強く、痩せた土地でも栽培できるという特徴を持つことから、1年の半分を冬が占めるデンマークの人々にとっては日々生き存える糧でもあった。
ロブロはデンマーク人にとって単なる食べ物ではなく、日常生活の一部なのだと、「BRØD」店主のクリスティーナさんは言う。
「朝食から夕食まで、ロブロはいつでも普段の食卓の選択肢として親しまれています。私の場合、子供の学校での昼食や、家族が集まって“ヒュッゲ(居心地の良い時間)”を楽しむ特別な祝祭のランチとロブロを結びつけて考えています。デンマーク人にとって、ロブロはすぐに空腹を満たしてくれるシンプルな食事であると同時に、高級なトッピングをのせて楽しむ贅沢な料理でもあるのです」
ロブロにあらゆる食材をトッピングしたオープンサンドのことを「スモーブロ」と呼び、まさにデンマークの食文化そのもの。シンプルでありながら、野菜と肉や魚をのせれば夕飯の献立にもなるし、バターにフルーツやはちみつをのせれば、手軽で腹持ちのよいおやつになる。
「私たち家族が2018年に日本へ移住した当時、ロブロはまったく見つかりませんでした。市場にあるのは、真空パックされたドイツ風のパンや、より酸味の強いフィンランド風のライ麦パンばかりで、私たちが恋しく思うデンマークのロブロとは異なるものでした。そこで、まずは自宅で自分たちのために焼き始め、やがてベーカリーを開業した際には、お店でも提供するようになりました」
しかし、売り出した当初ロブロはほとんど売れず、購入するのは主にヨーロッパ出身のお客様ばかりだったという。「ロブロ=硬くて酸っぱく、消化しにくいパン」というイメージを持たれていた。しかし、全粒ライ麦とサワードウで作るロブロには多くの健康効果があり、その魅力が日本人にも伝わるようにと、クリスティーナさんはお店で試食を提供したり、スモーブロのワークショップを開催したりと尽力してきた。
「今ではお客様の層も広がり、ロブロを定期的に購入してくださる日本のお客様も増えています。デンマークを訪れ、ロブロを懐かしく思う方もいれば、興味本位で試してみて、その美味しさに魅了され、常連になった方もいます。こうしたロブロへの関心の広がりの一因として、くらもとさちこ氏がこれまで行ってきた数々の啓発活動が挙げられることは間違いありません。
本書『ロブロの教科書』には、ロブロの本質とその深い文化的意義が見事に描かれています。日常のランチから特別なデザート、そして伝統的なスモーブロに至るまで、多彩なレシピが収録されており、デンマークのライ麦パン文化を巡る美味しく豊かな旅へと読者を誘ってくれます。昨年、この本の出版後に彼女が日本各地で開催・参加してきたイベントも、この流れを大きく後押ししています。このようなムーブメントを目の当たりにし、ベーカリーとしてそれを支えることができることを、とても嬉しく思っています」
著者のくらもとさんは、デンマーク人の夫と子どもたちと一緒にコペンハーゲンで暮らしている。デンマークの高等教育機関で健康と栄養の学位を取得し、シュタイナー教育機関でのオーガニック菜食給食の献立指導やプログラム開発にも関与するなど、20年以上にわたって健康的な食生活の重要性を説いてきた彼女にとって、ロブロは最も身近にある重要な食べ物だった。
本書の冒頭には、「ロブロは、生き存えるための糧であると同時に、家の守り神でもあり、ハレの日を飾り、人と人を繋ぐ存在でもありました」という彼女にとってのロブロ像が書かれている。
「くらもと氏は、ロブロの世界を深く掘り下げ、その魅力を余すところなく伝えています。その描写は、現代のデンマーク人にとっても新たな発見となるほど細やかで、日常の食事から家族が集う特別な場面まで、ロブロがいかに生活に根付いているかがよくわかります。しかし、本書は単に伝統を讃えるだけでなく、実際にロブロを焼き、その楽しみ方を学びたい人にとっても魅力的な一冊です。本書の優れている点は、その手軽さにあります。くらもと氏は、日本でも手に入りやすい食材を用いたレシピを丁寧に考案し、デンマークのライ麦パンをより身近なものにしています。
文化に興味がある人、健康的な食生活を求める人、そしてパン作りを愛する人-どんな読者にとっても、本書はきっと心躍る一冊となることでしょう」


クリスティーナ・ガネア・バーテルセン
「BRØD」店主。2018年に夫のヘンリックさんの仕事の関係で、家族でデンマークから東京に移住。オーガニックで身体にやさしいパンを家族に食べさせるために、国産小麦粉をはじめとする材料のリサーチやパンの勉強をしながら自宅で毎日パンを焼き続け、2021年5月に「BRØD」を始動。店舗は2022年12月に広尾にオープン。挽きたての石挽き粉を使い、サワー種で長時間発酵させたパンにこだわっている。
Instagram : @brod.jp