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いくの製パン 生野哲[人はパンのみにて生くるにあらず]

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福岡市早良区南庄にある「いくの製パン」に入ると、厨房から張りのある「いらっしゃいませ」が飛んでくる。決して派手な看板商品があるわけではない。けれど客足は途切れず、開業した2021年7月から今年で丸5年を迎えた。シェフの生野哲(いくのさとし)さんは32歳で焼き鳥屋の店長から一転、パンの世界に入った。その経緯をもっと知りたいと思い、「そもそも、どうして独立しようと思ったんですか?」と不躾に尋ねると、20年の精一杯を見つめるように生地を触った。

夢でも憧れでもなかった

生野さんは奄美大島に生まれ、一歳で福岡に移った。高校卒業後、焼き鳥居酒屋チェーンに勤め約15年を過ごす。店長として店舗の運営をしながら、新店オープニングの教育係として全国を回った。「お刺身とか焼き鳥とか、その場でお客さんに食べてもらって、おいしいって言ってもらえるのが好きだったんです。生来、接客が好きなんでしょうね」。北九州での出店応援のとき、後の奥様と出会った。

転機は結婚だった。奥様の実家が北九州でパン屋を営んでいた。その代表である義父が体調を崩し「手伝わないか?」と生野さんに声がかかった。まったくの未経験で飛び込んだ生野さんはまずその規模に驚いたという。「居酒屋だったら月商100万~300万のイメージですが、妻の実家はその倍以上ありました。長く地域の人々に愛されていたパン屋だと知り、これは絶対に残さなくてはならないと思い『お願いします』と、門を叩いたんです」。

生野哲さん 生野哲さん
生野哲さん

修行は決して手取り足取りではなく、シェフである義父の動きを見て覚えた。先輩が辞めなければ次のポジションには進めず、最初の5年はオーブン番ばかりだった。自分よりも若いスタッフに教えを乞い、本やYouTubeを見て独学し、仕事終わりに試作を重ねた。娘も2人生まれ、将来このお店を、家族を守るという意志が原動力だった。時が過ぎ、やがて店長を任されたが、店を譲るという話はしばらく宙に浮いたままだった。

勤めて10年ほどが過ぎた頃、病で奥様が逝去された。その3カ月後、義父が倒れた。突然のことだった。しかし休むことはできず、朝3時に出勤し、夜9時に退勤する日々を続けた。義父母の家の近くに居を構え、なんとかお店を回した。「『パパ、パン飽きた』って言われながらも、毎日パンを持たせてさ」。早く帰れた日には子どもたちと思いっきり遊んだ。スペースワールド(かつて北九州にあったテーマパーク)の年間パスを買い、夏はプールへ、冬はスケートへ。雨でも雪でも外へ出たい娘たちと過ごした。「特に下の子はパパっ子でしたね。上の子はママ思いで」。姉妹は寂しいとはほとんど言わなかったというが、長女から一度だけ「あの頃、誰もお母さんの話をせんかったことが寂しかった」と後で打ち明けられたことがあった。

消去法の独立

やがて海外から義兄が帰国したこともあり、家族会議の末、将来的にも自分の名義で背負える店ではないと考えた生野さんは独立を決断する。「娘たちを大学まで行かせるためにどうするか、本当にいろいろ考えましたが、当時すでに40歳を過ぎていて、あらためて自分にできることはパン作りしかないと思ったんです。パン屋への再就職も検討しましたが、すべて断られました。『独立する予定なので、物件が決まり次第、辞めます』と正直に言っていたので」。しかし直後にコロナ禍となった。開業資金を守るべく、ウーバーイーツの配達員、深夜のコンビニ店員、ガードマンなどのアルバイトで半年を食いつないだ。

物件を選ぶ目は、焼き鳥屋の新店出店で鍛えられていた。セブンイレブンの出店理論をベンチマークに狙いを定め、朝から通行人を数えて勝算を測った。「ここのエリアには保育園が4軒あり、すぐ近くには長く続く書店がある。また転勤族の転入が多く、小学校では毎年クラスの2割ほどが入れ替わることもあると知りました。人が減っても増える土地だと踏んで、ここでなら長く続けられるかもしれないと思ったんです」。

物件が決まった一方で、店舗づくりの内装の見積もりが機械設備を入れる前から予算を超え、一度は断念しかけた。契約も流れかけたところを、物件のオーナーが工務店を営んでいたこともあり、破格で設計と工事を引き受けてくれた。しかし飲食店設計の専門家ではなかったため難航したという。厨房機械はできるだけ中古をかき集めた。今も空調の給排気のバランスは悪く、この5年で厨房のエアコンを2度入れ替えた。

店名にも逡巡があった。当初はフランス語の造語や、ことわざめいた言葉を探した。憧れたのはある音楽プロデューサーのユニット名だ。「『何もない』と『豊か』を掛けて、何はなくても心は豊か、みたいな意味で、かっこいいなって(笑)」。娘の名前を使う案は学校で恥ずかしいからと2人に猛反対された。そしてたどり着いたのが名字だった。「もうわかりやすいのが一番かなと思って」、いくの製パンに決めた。

2021年7月に開業。立ち上げは飲食経験のある同級生と生野さんの姉2人の4人だった。同級生とは「いつかは2号店を出そう」という野心ある話もした。しかし、「規模の大きなお店ではなく、地域でしっかりと足場を固めたいと思っていて。家族でこじんまりと暮らせさえすればよかったんです」。よってオープン時から宣伝らしい宣伝はせず、店前に紙を貼っただけの状態でスタート。それでも客数は銀行に出した事業計画の見込みをじわじわと上回り続け、少しずつスタッフを増やし、今の所帯になった。

経営の手、職人の手

開業から5年、課題はむしろ積み上がっている。例えば生地の仕込み。カレーや明太ソース、練乳クリームといったフィリング系はベテランスタッフに任せられるようになったが、肝心の生地からは手が離せない。1日の製造品目は60種ほど、4種の生地を派生させて回している。「本当は成長のためにも、生地もスタッフにやってもらった方がいいと思っています。僕の手が空くようにしないと新しいことができないので。わかっているんですが、なかなかね」。2年前までは作業しながら眠ってしまうことが珍しくなかった。深夜に4キロの玉ねぎを炒めながら、火の前で寝落ちしたこともある。玉ねぎはすべて焦げてしまった。「鍋を投げつけようかなと思いましたよ。もう明日は営業なしにしようかって。でも自分に負けたらいけんなと。失敗して、歯を食いしばって、がむしゃらにやるしかないんですよ」。

人には恵まれていると語る。スタッフの離職率は低く、最高齢は朝のサンドイッチを担う74歳。この道4店舗目のベテランだ。スタッフの多くは近所に住んでおり、もとは客として通っていた人が応募してきてくれる。朝5時から登校前に入る学生もいる。人手が足りないときは誰かが自主的に残るか早く出勤してくれる。「『私入れますよ』って言ってくれたりさ。本当に気持ちでスタッフに支えられて、そのおかげで毎日営業できています」。

元焼き鳥屋らしい活気のある接客も、生野さんの地のものだ。スタッフに大声は求めない。ただ笑顔と、客に届く声。レジから顔が見える成形に立つスタッフも、レジが挨拶をすれば必ず顔を上げる。そこだけは徹底している。

「お客さんを喜ばせることの答えは一つじゃない。おいしいパンをこねる、綺麗に成形する、売り場を清潔にしておく。自分にできることは何かと、各自が考えて行動してくれます。お客さんのためにという基本さえブレなければ、おいしいパンが焼けると信じているので」

組織を育てる手応えはまだ掴みきれていない。フルタイムのスタッフを社会保険に入れ、社員として迎える段取りも、評価の基準づくりも容易ではない。「一番大事なのは一緒に働くメンバーです。みんなの能力をもっと上げるにはどうすればいいか。モチベーションを上げるためには具体的な目標をちゃんと示してやった方がいいのかとか、ずっと考えています。スタッフからは『店長ちゃんと言ってくださいよ!』と詰められることもあって、そのたびに悶々として……正論だと思いながら『じゃあ次からそこを直していこう』って。その繰り返しです」。

時間がない中でも試作時間は捻出する。クロワッサンを例にとれば試作回数は1,000回を超え、これまで15種類の粉を試した。タンパク質が10から11%のもの。12だとふわつき、9だと硬くなる。砂糖は7、牛乳は20、イーストは4。気温や湿度で配合を1、2%動かす。レシピの多くはメモを取らず、生野さんの頭の中にある。

「食べる側からしたら、食べ比べてもわからないくらいの差に、パン職人はプライドがある。パンはその場で成果が出ないので、パンと同じように、お客さんやスタッフとの向き合いを楽しいと思えるパン屋は、長く続くのだろうなと思います」

されど生業

やりたいことはたくさんある。前の店の改良ではなく"自分のパン"を追求したい。設備も追いついていない。洗浄機を後回しにせざるを得ず、いざ入れようとしてもスペースがないため、現在もすべて手洗いをしている。新しいオーブンが欲しい。ブラストチラーを入れて冷凍でネット販売をしたい。もっと厨房を広くしたい。仲間の繁盛店がロブロを毎日焼いていると聞けば心が動く。「すごいなと思う。でもいかんせん、今売れているパンをガラッと変えて、売れなくなると思ったら、とても怖いんです」。試作の傍らで、常にそうしたジレンマを抱えている。

業界の風向きものんびりとは構えさせてくれない。この5年で、同地域にある飲食店の5つが消えた。コンビニパンも年々質を上げ、毎月のように新商品を出してくる。「あれだけ商品開発力があったら、そのうちパン屋並みにおいしいパンも出してくるかもしれませんよね」。生き残りの鍵は、機械で量産しにくいハード系や、無添加、有機野菜、ライ麦……結局、看板商品を作れないまま5年が過ぎてしまったと生野さんは言う。国産小麦の店なのか、ハード系なのか、スイート系なのか。「絞りきれなかったです。今、お客さんが来てくれる一番の理由は、たぶん"近いから"だと思うんです」と、誤魔化さずに言う。

来年、次女が大学生になる。「そしたら親の務めはひとまず終わりかなと思ってます。やりたいことは……それからですね」。70歳まで現役で、いつか自宅とラボを兼ねた小さな店を——そんな夢を口にすればまんざらでもなさそうに笑う。家のことはすでに娘たちが回している。掃除に洗濯。立て替えた夕飯の精算は、スマホの送金で済ませる。

「いろんなものを犠牲にしてきたなと思っています。でも、もしパンを焼いていなかったら、まったく違う人生になっていて、今あるものの何一つとして手にしていなかったと考えると……不思議ですね」

そう語る姿に「人はパンのみにて生くるにあらず」という聖句が浮かぶ。人間は物質的な糧のみでは生きられない。家族を守るために掴んだ生地を、生野さんはがむしゃらに動かし生きてきた——人はパンのみにて生くるにあらず。多くのパン職人にとってそうであるように、されどパンこそ彼の生業なのだ。

いくの製パン

所在地:福岡県福岡市早良区南庄1丁目1ー17 第42川崎ビル 101号
営業時間:8:00~18:00(水曜定休)
Instagram:@ikuno_seipan