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TOLO PAN TOKYO 田中真司の南米旅 ~パン研究員が世界の辺境を目指したわけ~

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article : Yuya Okuda

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「業界の半歩先を歩く」という思いを持ち、独創的なラインナップと確かな味で名店としての地位を確立する東京・池尻大橋の「TOLO PAN TOKYO」。その統括シェフを務める田中真司さんは、2022年9月から夫婦で半年間の南米旅へと出かけた。アルゼンチンから、ウルグアイ、チリ、ペルー、エクアドル、コロンビアへと北上し、メキシコとアメリカも含めた8カ国を巡るこの旅は、世界の貧しい地域で暮らす人々にパンの技術指導をしたいという夢を抱く田中シェフにとって、長年思い描いてきた夢の旅だった。

自らを「パン研究員」と名乗り、ストイックという言葉がぴったりなほど日々パンに向き合ってきた田中シェフ。彼の目には南米の食文化や人々はどう映ったのだろう。そしてこの旅は何を教えてくれたのだろう。旅先で毎日つけていたという日記の内容を振り返りながら、田中シェフがこの旅を経て今思うことについて話を訊いた。

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<プロフィール>
田中真司(Tanaka Shinji)
1979年兵庫県生まれ。東京・青山の「デュヌ・ラルテ」で6年勤めたのち、2009年に上野将人氏と池尻大橋に「TOLO PAN TOKYO 」を開業し、シェフに就任。2010年には世田谷代田に「TOLO COFFEE&BAKERY」をオープン。現在は統括シェフ兼パン主席研究員として、日々パンの研究に勤しみつつ、ベーカリーのプロデュースや講習会の講師もこなす。

現地のパンを食べて、思いを新たに

2022年9月11日、アルゼンチンから旅をスタートさせた田中さん夫婦は、最初の1カ月はアルゼンチン大使館の方の案内で現地のパン屋さんやレストラン、マーケット、それに学校などの施設や先住民が暮らすエリアを巡り、多くの人と触れ合いながらそこに暮らす人たちのリアルを体験していった。そしてアルゼンチン・ウルグアイの視察を終えた後は本当のバックパッカーとなって、まさに行き当たりばったりの旅を続けた。この半年間の旅の感想を田中さんに尋ねてみると、「人間の生きる力」というワードが口を衝いて出てきた。

「言葉が通じない貧しい地域に行ってみたかったんです。特にスラム街のような場所には、人間の生きる力が漲っているんじゃないか。そしてそんな環境に身を置けば、生きること全部に一生懸命にならざるを得ない、その感覚を自分の中に取り戻したかった。挨拶をするにも言葉が通じないからジェスチャーを交えて一生懸命しゃべって、ニコッと笑い返してもらう。伝えるって本当はこんなにも大変で、エネルギーのいることなんだって、そういうことを今回の旅では一番学びたかったんです」

今回訪れた中で特に印象に残っている場所を尋ねると、着いて早々に訪れたスラム街だという。失業者、移民、障害者、孤児の施設が並ぶような、写真を撮ることもはばかられるスラム街だという。この日の田中さんの日記には、<傷付き過ぎては何も動けない、傷付かなければ動けない、考えることが大切>とある。そしてそのスラム街の中にあるパン屋で出会ったパン職人の姿に、以前から途上国でパンを教えたいという夢を抱いてきた田中さんは気持ちを新たにした。9/13の日記には次のように記している。
<彼の作り方は古く、直したいところですが、居場所をやっと見つけてプライドを持って作っているので、その場しのぎではなく、もう一度行って日本のやり方を教えて選択肢を広げてあげることで、居場所を奪わなくて済む。この人たちが国の中心になり、発信する側になれば、世の中は相当おもしろいことになります。失敗を恐れず、行動に移すことから始める形にしていきたい>

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ペルーのクスコに滞在していた11/6の日記にも、初めてパンチュータ(ペルーの代表的なパン)を食べた田中さんが感じた印象が次のように記されていた。
<パンオレの生地ではあるが、塩を入れてない。アルゼンチンの時にも何度か見たが、塩を抜いて甘さを出すパンだ。こういう時に、味の面でも、菌に対しても塩が必要なのだと製パン理論を教えてあげたい。現地はこれで良いのだ。という声もありそうだが、間違いなく、もっと美味しくもっと安全なやり方があり、塩1つで変わることを教えてあげたい。このやり方は利に適っていない。自分の想像の中で作り出したトロパンのパンチュータの方がはるかに美味しいと思う。それは原材料を掘り下げた20年があるからだとハッキリ言える。ここではまだ堀り下げられていない。材料も機械も工程も見直せば、同じ材料でもこの国の朝はもっともっと幸せになる。パンは朝を幸せにする>

才能ではなく努力次第で誰にでも開かれた世界、それこそがパンだと田中さんは信じている。「パン屋に何ができる?」「自分に何ができる?」そう自問自答を続けながら、毎日目の前の出来事に集中し、考え、田中さんは旅を続けた。

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ムヒカ元大統領との対話

田中さんの話を聞いていると、憧れの人を自分の中に何人も居座らせることが、彼のブレない強さの源なのかもしれないと思わされる。最初に田中さんの生き方に影響を与える人物が現れたのは10歳の頃、伝説的ボクサーのマイク・タイソンだった。タイソンがどんな環境で生まれ育ち、どんな考えを持っていたのか、その半生を掘り下げて傾倒していくうちに、田中さんは臆病だった自分を変えることができたという。そしてプロを目指してボクシングを始めると、今度はプロボクサーの辰吉丈一郎という存在に出会い、ボクシングの道を諦めてパンの世界にやってきてからは、田中さんの心の中には常に師匠である「デュヌ・ラルテ」の井出則一シェフがいるという。

「他にもこの人かっこいいと思う人はいっぱいいますよ。ボブ・ディランにジョン・レノン、キング牧師にマルコムX、マンデラ大統領もオバマ大統領も、ほんといろんな人が好きですね。彼らの言葉や生き方から、自分にない要素を取り入れようとしてきたんだと思います」

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田中さんには南米旅で叶えたいことが二つあった。それは20歳の頃から影響を受けてきたアルゼンチン生まれの革命家・指導者のチェ・ゲバラのたどった足跡を自分の目で見ること。そしてもうひとつが、“世界一貧しい大統領”として知られるウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領に会うことだった。幸いにも、アルゼンチン大使館のリカルド氏の尽力により、ムヒカ元大統領との面会は叶えられた。この日の田中さんの日記には、ムヒカさんと過ごしたひとときの様子が綴られていた。

<「今日は時間あるから」と、アポなしにも関わらず、ペットボトルのキャップで作った椅子に腰をかけ、話をすぐにゆっくりと始めてくれた。よく見ると、ズボン、靴、服の袖が土で汚れている。土仕事をすでにしていたのだろう。そして、横に呼んでもらい。同じ椅子に座り、話をしてもらう。とにかく真剣に話を聞く。言葉は理解できなくても、この方のする事に惹かれてきたのだから、しっかりとした声と表情を見て理解をしたかった。時折、僕の膝をグッと掴んだり、帽子越しに頭をなでてもらったりした。この方の大きな優しさを感じた。これは主観になるが、あきらかに言葉がわからないものに対して動物的、心で会話をする時のアクションに思えた。僕もパンを通じて世界を良くしたいと思う気持ちは、本当に同じだと思って来ている。それは、緊張していても、卑下することは何一つない事はムヒカ自体が知ってくれているはず。>

改めて、ムヒカさんと対面した時に感じた印象を田中さんに尋ねてみると、「本当に伝えたいことがあれば、言葉じゃなくても伝わるんだということを教わった気がします」と言って、話を続けた。

「ムヒカさんは今でも治安のあまり良くない地域で、質素な暮らしをしています。そういうイメージがあるから平和主義者みたいに世間から思われているけど全然そんなことはない。かつてはゲバラが信頼を置くゲリラ闘士でしたし、何かを勝ち取るための闘争心は今も持ち続けていると思います。争いごとは好きではないけど、何かを得るためには闘わなければいけないんだと、ムヒカさんはおっしゃっていた。僕もそう思います。闘う意志はありつつも、なるべく闘わずに済む立場を目指していますし、トロパンのスタッフも闘わずして勝つ人であってほしいって思っています」

長文で綴られたこの日の日記には、ムヒカが発した「もっともっと」という言葉についての田中さんなりの解釈が綴られていた。もっともっと贅沢を望めば、それは破壊へと向かうのは目に見えている。しかしお金ではなく人が豊かになることはできる。そのためには、もっともっとつながり、人に教え、楽しむことに目を向け、助け合っていくことが大切なのだと。

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旅を経て進化するTOLO PANのパン

半年間に及ぶ旅を終え、2023年3月から田中さんは再びトロパンの工房に立っている。取材時には日本に戻ってきて既に9カ月もの月日が経っていたが、この旅が田中さんのパン作りにどのように影響を与えているのかを知りたいと思った。すると田中さんは、新しい発想を試すよりも、ますます基本に立ち返るようになったと話す。

「トロパンが近い将来革新的な変化を起こす時のためにも、今は再び基本を見直すことが大事だと思ったんです。だからスタッフ教育でも、食材の勉強にじっくり時間をかけるように伝えています。例えば発酵を勉強しようとしても、食材の勉強をすっ飛ばしている子って続かないんですよ。発酵に欠かせない酵素はそもそも食材に含まれるものなので、途中でわからなくなる。建築で言えば、食材という基礎を築かずに2階から建て始めるようなもので、崩れるのは目に見えている。焼成も同様で、いい色に焼き上げるための答えが食材に書いてあるんです。だから必須食材について詳しくなることが何より大事。その分勉強はしんどいかもしれないけど、基礎さえしっかり抑えていたらその先の全部をおもしろがれますから。楽しむためのトレーニングみたいなものです」

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ペルーのリマで書かれた11/19の日記には、義務教育とパンとボクシングは共通するという持論を述べた上で、次のように筆を走らせる。
<自分で考える。そして、社会のどの職でも根本を考える事が必要なことになり、それを応用していっているだけなのだ。自分で考えるということができるから、人を信用し信頼できる。安心というのは、自分が世に惑わされない「考え」のことではないかと僕は思う。>

田中さんは現在、夜勤をメインにトロパンのパンを焼いている。毎日工房で反復する中で自ら考え、自分だけの課題を見つけ、仕事終わりにはどんなに疲れていても本を手に勉強を欠かさない。人よりひとつでも掘り下げて詳しくなれば、それが武器になるのだと田中さんは言う。

「僕の場合、他の人が面倒がってやらないようなことにこだわっています。パンを美味しくするための手数もそうです。きれいな棒状に成形されたパンよりも、歪んでいても美味しいほうがいいと僕は思っています。そのために生地を持った瞬間に、生地の熟成具合から今日はこういう手の当て方で、このくらいの手数でやろうって決めて成形を始めるんです。生地の温度が上がって発酵が進まないよう、瞬時に判断する感覚はボクシングに近いかもしれません。でも、パンの仕事にはスパーリングがないので、ある意味ボクシングよりも厳しいかもしれません。お客さん相手に試せないし毎日が本番勝負ですから。そのためにも毎日勉強だけでなく筋トレと運動をして体重維持を心がけています。やっぱりベスト体重じゃないと動きの切れが悪くなるんですよ。まだまだ好きなことをやり続けるためにも、もう44歳だからって年齢を言い訳にしたくない。常に今をベストな状態にもってこないと」

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ガチョウの油を塗ってねじって焼き上げたTOLOオリジナルバゲット「世田谷バゲット」

2023/1/25にメキシコで書かれた日記には、この年齢についての考えが綴られていた。そこには、トロパンがこれからおもしろいことを仕掛けていき、周りを引き寄せる電灯の灯りのようになっていくためにも、先頭を切る者は年齢を言い訳に疲れたり、しんどがってはいけないのだと。

<これからの子供の見本は、40代になると、体力も上がり、知識も増えて、仲間も全国的に増えて、めちゃくちゃ楽しいと、早く40歳になりたいと思わせないとです。その子供が40代になった時には、60代になった時の今までに集めたパワーを見せつけて、早く年とりたいと思わせたい。そして、僕たちの先輩のように40代はこうやから、20代はエエよね、みたいな過去に女々しくならず、未来を期待させていきたいですね! だからこそ、自分が笑っていないと意味がないですね。後40日ほどで日本に戻りますが、これからが楽しみです!>

世界一〇〇なパン職人になりたい

なぜそこまでストイックになれるのだろう。率直な疑問を尋ねると、師匠である井出則一シェフへの感謝の気持ちが大きいと田中さんは言う。パン作りは自由なものだけど、師とのつながりは決して切り離すことはできない、これが田中さんの考えるパンの道なのだ。

「師匠と二人三脚でやっていると思えば、なおさらサボれなくなりますから。僕は師匠を意識して常にパンを作っているし、師匠である井出さんに認めてもらえるパンなら間違いなくお客さんにもウケると思っています。井出さんはもう現場には立ってませんが、画期的なパンをいくつも作ってきた人なんです。僕のパンには必ず師匠のやり方がベースにあるし、そこだけは20年以上守り続けています。師匠のパンは世界に通用するんだって証明したいがためにパンを作っているようなものなので。おもしろいですよね、人との出会いでこんなにも自分は変われるんですから。旅もそうで、誰と出会うかで全部が変わっていく。僕は人に感化されやすいしこれからも感化され続けるでしょうから、一生自分というものを確立しないんでしょうね(笑)。でも、それもいいかなって思っています」

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低温発酵させることで発酵バターの風味を最大限に引き出した名物のクロワッサン

田中さんは現在、アルゼンチン、ウルグアイ、ペルーでつながった現地のパン屋さんや、アルゼンチンで活躍する日本人シェフ、アルゼンチン大使館のリカルド氏たちの協力を得ながら、貧しい暮らしをする南米の人たちにパンの技術指導をするべく交換留学の準備を進めている。自ら率先して困難な道をゆこうとするのはなぜか、最後にその真意を訊いた。

「師匠が一番喜ぶことは何だろうって考えたら、それは僕が三つ星のシェフになることじゃなくて、この技術を広めていくことだろうなって思ったんです。パンは世界中で食べられているものだし、苦しい生活をしている人たちをパンで“豊か”にすることだってできるんじゃないかって。僕がやろうとしていることって、倒れている自転車を1台ずつ起こしながら少しずつそれを手伝ってくれる人を増やしていくような、そんなレベルのボランティアですが」

そう言いつつも、実は本当の狙いは人助けとはちょっと違うところにあるんですと田中さんは言う。そしてニコニコと笑みを浮かべながら、田中さんが目指している理想のパン職人像について聞かせてくれた。

「期待もされず見放されていた人ほど、おもしろくなれるっていうことを証明したいんです。マイク・タイソンがスラム街から世界の頂点に登りつめたように、そんなドリームをパンの世界で叶えたらおもしろくないですか? 僕はそれを実現させて自慢したいんです(笑)。ちゃんと勉強を続けていればこんなことだってできるんだよって。パン職人になればこんなことだってできるんだって若い人たちに示してパン職人の可能性を広げられたら、業界全体の底上げにもなると思っています。僕は昔から得意なことに関しては一番を目指すつもりでやってきました。それはパンも例外ではありません。でもなりたいのは技術云々の一番じゃなくて、“一番おもしろいこと”をやったパン職人ですね。今までなかった技術を生み出して、スラム街のような見放された地域からすごいパンを世界に向けて発信したおもしろい人。僕が目指しているのはそこですね」

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南米旅の様子は以下の田中真司さんのInstagramからご覧ください。
@tolopantokyo.shinji.tanaka

TOLO PAN TOKYO
住所:東京都目黒区東山3-14-3 中里ビル 1F
電話:03-3794-7106
営業時間:8:00-17:00
定休日:火曜
Instagram : @tolopantokyo
HP : https://www.tolotokyo.com

TOLO COFFEE&BAKERY
住所:東京都世田谷区代田5丁目3-1
電話:03-5787-6732
営業時間:10:30-17:00(LO16:30)
定休日:火曜
Instagram : @tolocoffeeandbakery