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小麦粉から見える景観

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Junichi Kobayashi

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米農務省(USDA)によると、2022~2023年には日本は世界第10位の小麦輸入国となる模様です。外国産食糧用小麦の輸入量は国内産小麦の作柄や国際需給の動向などによって変動し、2023年度の「麦の需給に関する見通しの公表について」(農林水産省)では、外国産食糧用小麦の輸入量は464万トンと見込まれています。同時期の総需要量は対前年度比から562万トン、国産小麦の生産量は94万トンと予測されているので、需要量の8割以上を輸入に頼っていることになります。

日本人の3大主食である米、パン、麺のうち、関連家計支出の約7割を占めるのがパンと麺類で、原料である小麦の約9割が輸入です。日本の小麦輸入先は米国、カナダ、オーストラリアの3カ国がほぼ独占。ウクライナからの輸入はありませんが、輸入小麦の価格は国際市況や為替、穀物運搬船の運賃などによって決まるため、間接的に紛争など地政学リスクの影響も受けています。

輸入小麦は日本政府が全て買い付けた後、国内の製粉会社に売り渡される仕組み。毎年4月と10月に売り渡し価格が見直され、製粉会社への輸入小麦の売り渡し価格について、4月以降は1トン当たり7万6750円と、値上げ率を前期比5.8%の上昇に抑制すると発表しました。

※日本で使用される主要な小麦である以下の5銘柄は国がまとめて輸入し、日本に着いた後に製粉会社に売り渡されます。

・カナダ産 ウェスタン・レッド・スプリング(1CW)…主にパン用
・アメリカ産 ダーク・ノーザン・スプリング(DNS)…主にパン・中華麺用
・アメリカ産 ハード・レッド・ウィンター(HRW)…主にパン・中華麺用
・オーストラリア産 スタンダード・ホワイト(ASW)…主に日本麺用
・アメリカ産 ウェスタン・ホワイト(WW)…主に菓子用


[輸入小麦の政府売渡価格の改定について(農林水産省)]

小麦の国際価格は、天候による産地の作柄の変化やそれに伴って変動する国際需給動向に大きく影響を受けながら決まりますが、農林水産省によれば、国際価格への影響力が強い産地は、北米(アメリカ・カナダ)、オーストラリア、欧州、(ウクライナをはじめとした)黒海沿岸地域、ロシアなどだそうです。

国際価格と各国の生産量との間に関係はあるのでしょうか? 生産量を国別でみてみましょう。以下は世界の小麦生産国(2023年予測)ランキングです。

生産量

1位=中国 1億3800万トン
2位=EU 1億3430万トン
3位=インド 1億300万トン
4位=ロシア 9100万トン
5位=アメリカ 4490万トン
6位=オーストラリア 2660万トン
7位=カナダ 3384万トン
8位=パキスタン 2640万トン
9位=ウクライナ 2050万トン
10位=トルコ 1725万トン

35位=日本 105万トン
[米国農務省(USDA)]

国際価格=各国から他国へ輸出される小麦粉に対して付けられる価格なので、国別の輸出量についても把握しておいたほうが良さそうです。 以下2022年の輸出量予測ランキングをみると、その顔ぶれは大きく入れ替わり、1位はロシア、7位にウクライナが登場します。

輸出量

1位=ロシア 4200万トン
2位=EU 3500万トン
3位=カナダ 2600万トン
4位=オーストラリア 2500万トン
5位=アメリカ 2109万トン
6位=アルゼンチン 1200万トン
7位=ウクライナ 1100万トン
8位=カザフスタン 800万トン
9位=トルコ 675万トン
10位=インド 650万トン
[米国農務省(USDA)]

世界に流通する小麦粉とロシア・ウクライナ問題

米農務省によると、2022/23年のロシアの小麦輸出量は世界最大の4350万トン、ウクライナは1350万トンとなる見込み。両国の小麦は、主に黒海沿岸から北アフリカや中東に輸出されており、その小麦輸出が滞れば、日本の主な輸入元である米国やカナダ、オーストラリア産への代替需要が高まります。 地理学の世界では、さまざまな要素がかかわり合って「物語」が成り立つことを「景観」と呼ぶそうですが、地理や情勢や経済、そして人々の食文化がかかわり合うことで、小麦粉の物語も成り立っているのかもしれません。

2023年現在も、ロシアとウクライナの間で起きていることに私たちも終始目を離すことができません。「世界のパンかご」ともいわれるウクライナ。その食文化に今少し寄り添いたいという気持ちも生まれます。

そこで「世界の台所探検家」として、世界各国の家庭への取材活動を続け、実際にウクライナの家庭のキッチンを訪れたことのある岡根谷実里さんに、黒海沿岸地域の農産物や小麦粉を使ったウクライナの家庭の食文化について寄稿していただきました。
※2022年時点の記事です。

岡根谷実里(おかねや みさと) @m_okaneya
世界の台所探検家。1989年、長野県生まれ。東京大学大学院工学系研究科修士修了後、クックパッド株式会社に勤務し、独立。世界各地の家庭の台所を訪れて一緒に料理をし、料理を通して見える暮らしや社会の様子を発信している。クックパッドニュース、月報司法書士、味の手帖等で記事やレシピを連載中。また、全国の小中高校への出張授業も精力的に行なっている。訪問国/地域は60以上。著書に「世界の台所探検 料理から暮らしと社会がみえる(青幻舎)」

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小麦の故郷ウクライナ

ケーキ、パン、クッキー――。数々の魅力的な食べ物を生み出し、製菓製パンに携わる方にとって最も重要な食材のひとつが「小麦粉」ではないでしょうか。

その小麦の世界的な産地の一つが、ウクライナです。生産量は世界第8位、輸出量は5位(FAOSTAT、2020年)。小麦から作られるパンは多くの国で生活の糧となっており、世界ではパンの値上げがクーデターやデモにつながる例もあるほど(2019年スーダン他)。それくらい大事な作物です。小麦一大生産地のウクライナは、ヨーロッパをはじめ世界のパンかごとして、人々の生活を支えています。

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ウクライナ、キエフ市内の市場

黒い土の肥沃な土地

私が初めてウクライナを訪れたのは2011年のことです。私は世界各地の家庭の台所を訪れて料理を教えてもらっているのですが、この国の食卓は特に、大地の恵みを感じるものでした。

当時この国について知っていることといえば「チェルノーゼム(黒い土)」という言葉だけ。高校地理の授業で習った知識ですが、とにかく土地が肥沃で作物が育つと教わりました。実際に訪れると、その農産物の豊かなことといったら!時は夏の始まりの7月だったのですが、市場には手のひらからあふれるほど大きなじゃがいもが山積みで、道端には集積所のようなスイカの山。さらに郊外を車で走るとひまわり畑が広がっていて、「あのひまわりから油をとるんだよ」と教わりました。ひまわり油の生産量はウクライナが世界一。広大で豊かな土地なのです。

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道端で売られるスイカ

そして何よりも大事なのが、小麦です。小麦はウクライナの農産物輸出全体の3分の1程度(金額ベース)を占める重要な輸出作物であると同時に、人々の生活にも重要な産物です。ウクライナの小麦料理を、少しのぞいてみましょう。

イースターにはリッチなパン

小麦といえば、まずはパン。ウクライナの食卓にパンは欠かせません。普段のパンは油脂も甘さもほとんどなく食事に合うプレーンなものですが、イースターのお祝いには卵や砂糖をたっぷり使ったブリオッシュのようなパン「パスカ」を作ります。

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パスカ(paska, Паска) Photo by Elena Mozhvilo on Unsplash

編み込み飾りを施して大きな丸い型で焼くから、まるでケーキのよう。大勢で分けあって食べるのも、おいしさのうちです。

ライ麦パンを“飲む”

祝い事や週末には白いパンが登場しますが、日常的には大きな丸い塊のライ麦パンが食卓に上り、スライスして食べます。このパンはなんと、飲み物にも変身するのです。そのライ麦パンでつくる飲み物というのが、「クヴァス」です。微炭酸の微アルコール飲料ですが、現地を訪れ味わった人の何割かは虜にしてしまう魅力を持っています。

「ウクライナに来たからにはクヴァスを飲まなきゃ」とお世話になっていた家庭で差し出されたのは、2リットルの大きなペットボトル。中に入った茶色の液体はシュワシュワして、鼻を近づけると酸っぱいにおいがします。ひと口飲むと、少しビールにも似たようなほろ苦い甘さと酸っぱさが相まって、なんとも独特な風味。最初はちょっと抵抗があったのですが、慣れると体の中がきれいになるような味わいがくせになり、また飲みたくなるのです。アルコール度数は1%程度で、お酒ではなく清涼飲料水ですが、アルコールに弱い私はグラス1杯でなんだか脈拍が速くなり、頭がふわっとしました。

パンから作るドリンクって、作り方が気になりませんか?私も現地では市販品しか飲んだことがなかったので、インターネット上のレシピを参考に作ってみました。

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クヴァスはライ麦パンで作るのが最も一般的ですが、ビーツや白パンなどでも作ります

ライ麦パンのスライスを黒焦げまで焼いて、お湯に一晩浸して糖分を抽出したら、それを濾した液に砂糖とイーストを加えて数日暖かいところに放置。水面がぶくぶく泡立ってきたら飲みどきです。コップに移してしゅわしゅわしているのをぐいっと飲みます。1日目はライトな味わい、3日目くらいになるとかなり強め。変化していく味わいを楽しむのもまた面白いものです。かたくなってしまったパンや切れ端で作れるので、発酵好きの方は作ってみるのもおすすめですよ。

クヴァスのルーツについては諸説ありますが、安全な水が手に入らなかったその昔に、発酵により少しでも安全に水分をとるために生まれたというのが一つの説。たしかにイギリスでは水の代わりにモルト(ビールのような飲料)を飲んでいたと言いますし、嗜好品の飲料ではなく「生きる糧のドリンク」だったのですね。パンからできただけあります。

パンの他にも、小麦粉料理はたくさんあります。小麦粉の皮でじゃがいもやチーズなどの具材を包んでゆでたヴァレニキはひと口大の餃子で、ロシアでも食べられている伝統料理。クレープのようなブレンチキに、ふかふかのドーナッツパンプーシュカも人気者。これまたウクライナの特産品ハチミツを使ったハニーケーキも、小麦粉がベースです。

朝食のチーズパンケーキ「スィルニキ」

小麦粉やじゃがいもを使うどっしりお腹に溜まる食事が多い中で、私が現地でうれしかった料理の一つが、スィルニキというチーズパンケーキです。カッテージチーズに卵や砂糖や薄力粉を混ぜて、丸くしたのをフライパンで焼くのですが、チーズの爽やかな酸味と控えめな甘さが体にやさしく感じられてほっとしたのを覚えています。

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現地で食べたスィルニキ

出会ったのは現地家庭に滞在中の朝ごはん。朝起きたら台所からいいにおいがしてきて、つられて向かうと、この家のお兄さんが焼いてくれていたのです。「よく寝られた?」とか言いながら朝から山盛り作ってくれたスィルニキは、染み入るほどにおいしくて。作り方は難しくないので私も時々日本で作るのですが、あの記憶の中のおいしさは一向に越えられません。

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日本で自作したスィルニキ

小麦をめぐる世界の結びつき

土地が肥沃なウクライナは屈指の農業国で、小麦だけでなく、ひまわり油(世界1位)、とうもろこし(6位)、大麦(6位)、大豆(9位)など様々な豆穀類の世界的産地となっています。 しかしながら、こんなに恵まれた土地なのに、いや、恵まれた土地だからこその問題もあります。

この土地には紀元前から人が住んでいたとされていますが、ユーラシア大陸における地政学的な重要性や、肥沃な土地であることなどの要因が重なり、この土地では歴史的に争いが繰り返され、13世紀以降は、モンゴル帝国やオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国にソビエト連邦など様々な権力に侵略され併合されてきました。ソビエト連邦崩壊以降も、2014年のロシアによるクリミア併合によって経済成長は停滞し、一人当たりのGDPはモルドバを下回ってヨーロッパ最貧国と言われる地位に転落しました。

現在ウクライナとロシアの間で起こっていることは、決して軽視することのできないものです。しかしながら、肥沃な土地とユーラシア大陸における地理性もあいまって、歴史的に争いが繰り返されてきたというのもまた一つの事実なのです。

ウクライナ産小麦は北アフリカや西アジアへ

日本の小麦は85%を輸入に頼っていますが、その輸入先はアメリカ50%、カナダ33%、オーストラリア17%となっており、この三か国で全量を賄っています(農林水産省、2016~2020年平均)。ウクライナ産の小麦は主に北アフリカや西アジアの新興国に輸出されており、日本には入ってきていません。残念ながら、日本でウクライナ産小麦を買うことはほとんどできません。

日本にはウクライナ産の小麦粉は入ってこないものの、世界的な輸出国であるロシアやウクライナからの輸出が停滞することによって小麦の国際価格が上がったり品薄になったりという間接的な影響があることは懸念されています。

小麦粉という食材の向こうに見える景色に意識を向けると、暮らしや世界の動きまでも見えてきます。